ルー・テーズ、猪木―藤波戦を斬る

 まったく記憶になかったが、1985年9月19日の猪木vs藤波は「当時のパンフレットの『あなたが観たいカード」』投票で1位」ということで実現したのだという。

 しかし、観客は主催者発表で8290人。
 満員にはならなかった。

 週プロではこの試合の扱いは大変大きい。表紙のほか、巻頭カラーとして5ページ、そのあとレフェリーのルー・テーズへのインタビューが2ページ、巻頭記事で4ページ(村松友視夢枕獏もコメントを寄せている)、「テレビ観戦フリートーク」のページでもこの試合を、というものである。

 P.76〜77の熱戦譜*1ページの欄外になる「熱戦譜レポート」も両方、猪木―藤波である。

 週プロでこの試合をレポートしたのはターザン山本*2。彼にとっても大変思い入れのある試合らしく、別冊宝島*3でもすばらしい文章を書いている。

 以下はこのとき、試合を裁いたルー・テーズへのインタビューである*4

「13年前、イノキはゴッチの望むスタイルに合わせて闘った。だが昨日の試合は、イノキ・スタイルで始終押し通したんだ。それは同時にフジナミ・スタイルであり、ひいてはニュー・ジャパンのスタイルだったんだ。それが名勝負たりえた所以なのだ」
(中略)
――ではどの部分がヤマ*5でしたか?
「フィギュア・フォー(4の字)とダブル・ブリッジ、それに最後のオクトパス(卍固め)だね」
(中略)
――オクトパスはどうでしたか?
(中略)猪木のガッツ……ベップ……そう、猪木の全てがこもっていたよ。3度目が限界だった。試合後の記者会見で私は“これ以上やったらフジナミの右肩がクラッシュされてい”といったが、あれは苦しい弁明だった。骨が折れるとか、失神するとか、そういった理由ではなく、あれはレフェリー・ストップの、レフェリー・ストップにすべき“時”だったんだ。それしかいいようがない。あれ以上、2人が試合を続けることは、出来ないとの判断こそ、スペシャル・レフェリーであるルー・テーズの役割だったのだ」
――シュート的観点で見た場合、どちらが上回っていましたか?
「それは、ややフジナミが上だっただろう。若さが味方した。フィギュア・フォーがいい例だろう。あれはシュートにない技だが、昨日の試合でフィギュア・フォーのシーンは明らかに“シュート”だった」

 回りくどく、思わせぶりで、禅問答のごとき答弁が目立つ。

 いろいろと、書いては消しを繰り返したが、いまはあえて語らないでおこう。
 最後に、再びこのインタビューから引用して終わりたい。あらためて、合掌。

「ウエダが試合後にリングに上がってきたのは、あいつにしてはたいしたアドリブだ(笑)。あの不器用なウエダが、あんなアドリブを出したというのが、思考の試合の全て雄物が立っているんじゃないか?」

*1:個人的には大嫌いな言葉なので使いたくないが、ページのタイトルなので仕方なく使う。なぜ純然たる客観データに、「熱戦」などという主観表現を使うのだ。

*2:当時はまだ記者。

*3:179号『プロレス名勝負読本――あの日、リングに奇跡が起きた!』(宝島社、1993)

*4:週刊プロレス113号(1980年10月8日号)

*5:本文傍点